いきなり、夏休みを控えた生徒達に学校の先生が注意するようなことを書いて何かとお思いになったかもしれません。
しかしこれは事件を抱える人たちに向けた注意なのです。
一般の民事事件では、「あのときこう言ったではないか、ちゃんと覚えているぞ」、「いやそんなことは言った覚えはない、確かにこれこれしかじかとは述べたが、あなたが言うようなことは断じて述べていない。」とかいうように、言った言わない、知っていた、知らなかったというように、一つの出来事を真っ向から反対の主張をするような議論になることがあります。そのような議論を「水掛け論」といいます。まあ子供同士の喧嘩のようですが、実はこれが民事紛争のほとんどを占めています。この水掛け論のことをタイトルでは「水遊び」と茶化して表現したわけです。
水掛け論は、お互い自分の体験したことに自信を持っていますので、お互い自分の主張が裁判所で当然認定されるだろうと期待します。水掛け論では、客観的な第三の証拠が乏しいものですから、自分の認識に誤りがない以上、相手の主張が虚偽なので、裁判所も当然相手の虚偽を見破ってくれるだろうと期待しがちです。そして水掛け論は他の証拠が乏しく、自分の認識の正しいことを強調するほかないのですから、主張を展開することは非常に簡単です。
そのために民事紛争において水掛け論が多くなるのです。
しかしこの水掛け論は実に危険です。常に誤判の可能性を秘めています。
確かに民事裁判では立証責任の分担というルールがあり、その事実の有無を立証する責任が当事者のどちらにあるかということが予めルールとして決められており、主張の真偽の判断がつきかねるときは、もともと立証責任のある当事者が立証できなかったものとして判断するということになっています。そのことによって裁判官の気まぐれによる不安定な判断に陥ることは避けられてはいます。しかし当事者にとってはどうでしょうか。相手が嘘を述べ立てていたために、自分の主張が通らなかったというので、立派な誤審ということになってしまいます。裁判としては正しくても、事実とは異なる判決になっているというわけです。しかも、虚偽を述べている相手方に味方をする第三者が現れたとしたらどうなるでしょうか。「私はあの場にいて、誰さんがこれこれしかじかと言っていたのを間違いなく聞きました」等と虚偽の証言をされてしまったらどうなるでしょうか。もちろんその第三者の虚偽を見破り指摘するのが弁護士の仕事なのですが、客観的な証拠を踏まえて矛盾を指摘できる場合はともかく、水掛け論のようなときは、そもそも客観的証拠が乏しいのですから、信用性に疑問を差し挟む決め手がなく、結局その第三者との間でも水掛け論をすることになってしまいます。このようなとき、裁判官は当事者間だけならともかく、第三者までもがわざわざ裁判所にまで来てこのように証言しているのだから(普通、自分の利害と直接関係のない第三者は裁判沙汰に巻き込まれるのを嫌うという経験則がある)、まずそのとおりだろうと考えがちです。しかし本当は、その第三者と味方をした当事者とには何らかの利害の結びつきがあるのかもしれません。しかしそれは裁判では表に出ることはめったにありません。
そこで見識のある裁判官は常に当事者に対して和解を勧告いたします。どちらが正しいと判断してもそこに誤りのある可能性があるからです。しかし判決をもらう以前では当事者は自身満々です。「相手は虚偽ばかり述べていて実にけしからん。そんな相手になぜ私が譲歩をする必要があるのだろうか。とんでもない。」と和解を蹴飛ばしてしまうこともあります。これは非常に危険なことでギャンブルであるという覚悟をもってください。ギャンブルに負けたときどうなるかということをよく考えて冷静になる必要があります。
また、裁判所にもお願いがあります。迅速な事件処理を優先するがあまり、当事者の一方が和解の意思のないことを表明すると、それ以上に和解を勧告しないままになってしまうことが少なくありません。もちろん当事者が「断固和解はしない」と宣言し続けているときは仕方ないのかもしれませんが、水掛け論のように、事実認定における誤りのリスクの多いときには、すぐに和解を断念するのではなく最後の最後になるまで何度でも和解を勧告し、和解による解決の妥当性を説明するようにしていただきたいと思います。
水掛け論になる裁判はこれからもなくなることはありません。水掛け論は危険ですが避けて通れません。しかし常に落ち着かせどころを冷静に模索するようにしなければならないと思います。
水遊びは本当に危険です。うまくいっているときは気持ちがいいけれど溺れないようにしなければなりません。