裁判員制度開始を前向きにとらえよう!!

 まだまだ先のことと思っていた裁判員参加の刑事裁判が、いよいよ間もなく始まります。このごろ、テレビ番組などでも裁判員制度について取り上げられることが増えて参りました。
 その多くは、裁判員制度の様々な疑問点を整理、提示し、今更のように裁判員制度の制度立案、推進を担当してきた方々に対して、それをぶつけて、あまり説得力のない苦しい弁明を聞き出すという構成になっております。
 私も、いろいろと考えるにつき、なるほど問題点だらけで、無理して始めなくてもよいのではないかと思うようになってきているところではあります。ですが、今更、いろいろ論じてみても、あと半年ほどで始まってしまうのですし、どうせなら、やっぱり始めてみてよかったと評価されるようになって欲しいと思うので、ここでは敢えて制度の前向きな側面にスポットを当ててみることとします。

 まず、なぜ今、裁判員制度なのか、制度導入の趣旨について確認しましょう。
 裁判員制度の趣旨について、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」第1条では、「この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、」特別な刑事裁判の方式として導入するのだという説明がされています。 

  つまり、国民に司法制度について理解して欲しいというのが狙いの一つということです。
 そういうと、「まあ別に、自分は刑法に触れるような悪いことするつもりはないし、別に刑事司法制度について理解していなくても困ることはないよ。」という声が聞こえてきそうです。それには異論を差し挟む余地はありません。
 でも、自分が刑法に触れるような悪いことをしなくても、国民主権を担う国民の一人であるという立場を踏まえれば、裁判所でどのような審理がされているのか何も知らないままで何ら論評ができないというのでは、本来、いけないのではないでしょうか?
 国家権力の独断専行や暴走を避けるため、近代国家では、国家権力を「立法」・「行政」・「司法」に分けるというシステムが定着しています。三権分立という概念ですね。そしてもう一つ、国民主権といって、国のあり方を最終的に決めるのは国民全体の総体的な意思であるという考え方も近代国家の大原則です。さて三権分立の考え方で、いくら権力を分けてそれぞれ牽制し合うようにすることにしていても、やっぱりそれぞれの機関が強力な権限を持つことには変わりありませんし、限界があります。最後のところはやはり主権者たる国民の出番とならざるを得ないのです。国民の出番とは具体的には、国会議員は国民が参加する選挙で決めますし、行政については、その選挙で選ばれた国会議員を通して、間接的にではありますがコントロールするという建前になっています。更には一部には国会議員が人事権を有しているポストもあります。つまり、国民が直接、間接に国会や行政に対して意見表明をし影響力を行使する機会が与えられているというわけです。
 さて裁判所です。裁判所も強大な権力を持っています。国会がどんな法律を作っても、それを解釈適用するのは裁判所の権限です。その解釈適用の如何によっては、法律は有効に活用できるものにもなるし、逆に使い勝手の悪いもの、不合理な結論をもたらすものにしかならないこともあります。法律を生かすも殺すも裁判所次第です。そして法律だけではなく、生身の人間の生命を奪うことさえ、合法的に許可できる唯一の組織なのです。それにもかかわらず、これまで国会議員を選挙で選んだり、その国会議員を通して、行政府をコントロールしたりできる建前になっていることと対比して、国民が裁判所に対し影響力を行使できる場があったかというとなかったわけです。唯一、最高裁判所裁判官の国民審査制度というのがありますが、あれは全く機能していません。ないに等しいものです。
 このように考えてくると、本来、このように司法、つまり裁判所に対してだけ、国民の影響力が行使できないということであってはいけないということのはずです。しかしこれまで制度がありませんでした。ところが誰もそれを問題視していなかったのは、「法律のことは裁判官に任せるほかない」、「自分たちは素人で口出しできるものではない。」という考えが大勢だからなのです。でも、もう明治維新から140年ほど、現日本国憲法が制定されてからでも半世紀を超えているというのに、依然として、裁判所のすることには口出しできないというのは情けないことなのではないでしょうか。国民主権の担い手としては、甘えているといわれても仕方ありません。
 司法、裁判のことに無関心、理解の必要なしと言っているだけでは済ませられないのです。 

 さて、次に司法に対する信頼の向上という意味ではどう考えられるでしょうか。
 単純に考えると、この点は、前項に論じてきたところと相矛盾するような気がします。裁判所でどのような審理がされているのか、どのような議論がされて判決が導かれているのかについて理解が得られれば得られるほど、国民に問題意識が芽生えるようになるのであって、司法に対する信頼が危うくなっていくのであって、今の方が、信頼感はあるように思えるからです。
 しかし、恐らく信頼感の質を問うているのではないかと思います。「まあ、任せておけば間違いはない」、「裁判官が変な審理をして判決をすることはあるまい」というのも、信頼感があるということではありますが、それは盲目的な信頼ということでしかありません。裁判官が実際に、どのようなスタンスで審理に臨み、どのような考え方で判決を導き出しているのかブラックボックスのまま、「とりあえず大丈夫だろう」というような性質の信頼感では駄目なのです。本当に裁判所でどのような審理をしてどのように判決を導き出しているのかが見えた上で、それでも獲得できる信頼感こそ本物です。たぶん、裁判員制度でそういう良質な本物の信頼感を醸成していければということを意図しているのだと思います。
 審理の過程や判決が出されるに至った経緯を知ってもらうようにするためには市民が裁判に参加しなければできないと考えられているのだと思います。裁判がいくら公開の法廷で行われようと、裁判官の頭の中は公開されていないのですから、本当のところは、裁判官と意見交換し、議論しなければ何も分からないのです。    

  さて、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」第1条の規定から、裁判員制度の意義について、私なりに考えてみました。
 どうでしょうか、理念としては必要不可欠な制度、むしろ今までこのような制度がなかったことの方が問題だというようには思っていただけないでしょうか。
 そして、裁判員として裁判に参加することは選挙権を行使するようなものであるということもご理解いただければと思うのです。選挙は国会議員や地方議会議員、地方自治体の長を決めるための権利ですが、それによって、国会や地方議会をコントロールしていくのと同様、裁判所をコントロールするツールとして裁判員制度が導入されたわけです。確かに日曜日などに投票所に少し立ち寄れば投票を済ませることができるのに比べ、裁判員では平日にほとんど一日がかりで、3日から5日程度、案件によってはそれ以上の長期間、拘束されてしまうわけで、負担の度合いとしては選挙とは全然違います。しかし意味合いとしては同じなのです。
 意味合いが選挙と同様だということからの帰結としては、法律の知識は不要ということがあげられます。よく「法律の知識がないのに務まるのか」というご意見を耳にしますが、選挙で投票するときだって、本当にその候補者の公約やその公約遵守の意欲、能力、ひいては直面する国政の政策課題など、すべて把握して冷静に分析して投票しているのでしょうか。裁判員として裁判に加わるときも同じです。あまり法律のことなど深く考えなくてもよいのです。そしてまた「感情に流されてしまって冷静に判断する自信がない」という話も聞きます。それも問題ありません。選挙の投票だって、そのときのムードに流されて投票することがあるのです。
 無用に身構える必要はないのです。  

  といいつつ、裁判員制度のような市民参加の制度が必要というのは確かなのですが、なぜ、今のような制度なのかについては、私も疑問に思うところが大です(疑問点については、本稿のテーマではないので、割愛します。)。
 ただ多くの問題点、疑問点があるからといって、また裁判への市民参加制度が導入されないまま先送りになるのは、もっと良くないと思います。実際に始めてみて徐々に手を加えていくほかないでしょう。