裁判員制度の改善案(私案)

 今週、裁判員裁判のあり方に大きな波紋を投げかける最高裁判所の決定がありました。
 一審の裁判員裁判では死刑判決が下されたものの、控訴審では量刑が重すぎるとして無期懲役の判決に変更され、それが最高裁判所でもそのまま受け入れられ、結局、無期懲役の判決が確定したというものです。
 もともと裁判員制度は裁判官の価値観が世間の感覚、常識とかけ離れてしまっているようではいけないとの反省に立ち、市民の健全な法意識を刑事裁判に反映させようという趣旨で始まったものなので、裁判員が死刑判決を下したというならばそれこそが市民の健全な法意識にほかならないのであって、それを裁判員が加わらない上級審で変更されるようでは、裁判員制度の意味がないのではないかという批判にさらされています。

 私もこの批判は至極当然であると考えます。裁判員の多くの方達は、何も好き好んで凶悪事件の審理に携わるわけでもないと思います。それでもそれ相当の使命感と義務感をもって裁判に関わって頂いているわけです。それなのに結局、上級審でその判決が否定されるようなことがあるとすれば、裁判員の方達の意欲とモチベーションを著しく低下させることにもなります。
 しかし、今回の最高裁判所の決定が、死刑の特殊性を指摘し、どういう裁判員に当たるか、どういう裁判官に当たるかの偶然によって被告人の運命が変わるようであってはいけないと指摘したこともまたうなづけるものです。
 最高裁判所は当然のことを指摘しているのにもかかわらず、それが裁判員制度に対する疑問を投げかける形になってしまい、最高裁判所の姿勢や裁判員制度への批判につながってしまったことに、大きな問題意識を感じた次第です。
  私は裁判員制度は高く評価しています。
 刑事事件の場合、裁判官は本能的に被告人の主張について、眉唾物であろうという意識を持って臨んでいるように考えざるを得ないからです。数多くの再審事件、冤罪事件、無罪を主張し続けている受刑者、元受刑者の存在を考えてみて下さい。そして彼らの主張や証拠を見ると、なるほど彼らの主張に合理性があるなと感じることは少なくありません。なぜ裁判官は彼らの主張を受け入れなかったのかと疑問に思うことも多いのです。
 もっと良くありがちな例で述べると、盗まれた品物を持っている人が、窃盗犯人として裁判を受けることになったとします。しかし、「いやこれは盗まれた物だなどとはつゆ知らず、ゴミ置き場に捨てられていたから拾ってきただけなのです。」というような主張がされることがあります。そして実際にこのような主張に接したとき、裁判官は、本能的に「あっ、まただよ(そんな弁解が通用すると思っているのだろうか)。」と考えてしまうのです。確かに嘘の作り話をして罪を免れようとする窃盗犯人が少なくないのは事実ですが、でも本当かもしれないわけです。「疑わしきは罰せず」を原則とする以上は、その被告人の説明が虚偽であることが確認されない限りは、有罪判決を出すわけにはいかないはずです。それなのに、あまりにも簡単に有罪判決が下されているのが現状です。
 だから裁判官だけの判決に任せず裁判員に加わって頂く必要があるわけです。
 裁判員制度など無駄だ、素人に判断させることにそもそも無理がある、等と、裁判員制度を廃止すべきであるという考えもありますが、私はそうは思いません。
 しかし、裁判員裁判の対象事件を抜本的に変えることを提案します。
 第1に、裁判員裁判の対象事件は、一応、重大事件に限らず全ての刑事事件を対象とする必要があります。
 裁判官の慣れや感覚の麻痺によって、被告人の真摯な主張が顧みられないような事態を避ける必要があることは、犯罪の軽重とは全く関係ないからです。
 しかし第2に、ほとんどの事件がそうであるように、被告人も罪を犯したことを認め、あとは情状のみが争点となり、裁判の懸案が量刑だけであるという事件については、その罪が重大な事件であろうとなかろうと、裁判員裁判にする必要はありません。懸案が量刑のみであるというときに、裁判官が変な量刑をする心配はありませんし、それこそ「餅は餅屋」でプロの裁判官に任せておけばよいのだと思います。それを裁判員が加わって判断させるから、今回の最高裁判所の決定のように、何のための裁判員裁判なのか分からなくなるような事態も起こってくるのです。
 アメリカの陪審員制度も、事実上の争点についてのみ陪審員の評議に委ねられ、量刑判断は、陪審員の有罪評決を受けて裁判官のみで判断しています。日本の刑事訴訟は、事実上の争点についての審理と量刑判断とを分けた二段階の審理をする構造にはなっていませんので、裁判員が途中まで参加し、途中から離脱するということにはできず、一度裁判員裁判として審理が進められる以上は、量刑判断も担って頂かざるを得ないと思います。しかし最初から量刑だけが懸案だと分かっているような事件については、裁判員に加わって頂く必要はないと思うのです。
 あるいはまた、裁判を進める途中で、被告人が方針を変え、罪を認めて情状のみを訴えるようになるということもあります。その場合には、それが被告人の真意であることが確認された時点で、裁判員の任を解いて、通常の裁判官だけの裁判に切り替えて続行していけばよいと思います。
 そして裁判員裁判にする必要がある事件なのか否かは、事件が起訴された後に行う公判前準備手続で振り分ければよいのです(現在は、裁判員裁判の対象になるような事件についてしか公判前準備手続は開かれていませんが、全ての事件で行うことになります)。 
 いずれにせよこのように量刑のみが懸案となる事件について裁判員裁判を開かないとするならば、仮に事件の軽重を問わず全てを裁判員裁判の対象にしても、実際には裁判員裁判が開かれるような事件は増えません。むしろ今よりもはるかに減少するだろうと思います。