犯罪被害者参加制度の修正希望

 久しぶりの新たな記事になります。
 もっと細めに新たな記事をアップしたいとも思うのですが、平日で仕事が裁ききれずに仕事を持ち帰ったり、休日は法律のこと考えたくないと思ってしまったりして、怠けてしまいました。お許し下さい。

 さて今回は、犯罪被害者参加制度について、私の考えているところをご紹介しましょう。
 刑事裁判に犯罪被害者が立ち会えるようになったことは、私は方向性としては大いに評価しています。
 そもそも国家の刑罰権の源は、元来は被害者や遺族の怒りや悲しみをぶつける場を国家権力が用意したという一面にあったはずです。国家が被害者が復讐や報復行為をするのに代わって犯人を罰するということで、被害者、遺族の怒りを少しでも和らげてもらおうということだったのです。もちろんこれに尽きるわけではありませんが、これが国家の刑罰権の大きな源であったことは間違いありません。
 であるならば、実際に刑罰を科すのは国家権力であったとしても、被害者側の立場では犯人に対してどのような程度で怒っているのか、どういう気持ちでいるのか、充分に汲み取ってもらわなければ意味がないということになります。犯人にどのような刑罰を科すかを決める場が刑事裁判の場であるとすれば、そこに被害者、遺族が参加し、気持ちを表明するのは、当然の権利ということがいえるはずです。
 とはいえ元来、被害者、遺族の感情、気持ちを汲み取り代弁するのは検察官の役割だったのだと思います。ところが検察官が公判の審理を担当するに当たって、被害者や遺族の感情を汲み取る努力を怠ったので、検察官には任せられない、被害者、遺族が、直接、刑事裁判に参加することを認める必要があるという検討がされることになったのだと思います。 

  ただ考えなければならないのは、刑事裁判は、本来、被告人に対してどのような刑罰を科するかを決めるだけの場ではないということです。
 刑罰を科する前提として、被告人が「真犯人」と間違われて起訴されてしまったのではないか、正当防衛、緊急避難等の違法性阻却事由が成立することはないのか、心神喪失状態下での行為として刑法上の責任を問えないのではないか等、慎重かつ冷静に検討する場でもあるのです。
 特に被告人が起訴されたのが間違いだったとき、それが見落とされるようなことがあってはならないというのが刑事司法の大原則です。「百人の犯人を間違って無罪放免とすることがあったとしても、一人の無実の人を処罰するようなことがあってはならない。」という言われ方をよくします。
 少し想像して見てください。あなたが何らかの事情で世間を騒がせた凶悪事件の犯人として間違われて起訴され、裁判を受けたら死刑判決が出てしまったとしたら、どうですか?凶悪犯罪の犯人と間違われることはあまりぴんと来ないかもしれませんが、電車の中で痴漢の犯人と間違われることは想像できるでしょう。実際、映画もやっていますしね。 

 そこで問題です。
 さて被害者が法廷に参加し、被告人に対して直接、質問する機会が与えられる、更に最終的に被害者自ら検察官とはまた別に被告人に対する処罰意見を述べる機会が与えられるというのですが、被告人が真犯人でない可能性があって争っているときにも許してよいのでしょうか。
 幸か不幸かは分かりませんが、起訴された被告人の9割方(感覚だけの裏付けのない数字です。)が罪を認めているのが現状です。ですからほとんどの場合、情状だけが争点になります。そのような場合には被害者が被告人に対する処罰感情を直接に述べる機会があっても問題はないでしょう。
 しかし被告人が真剣に無罪を争っているときに、被害者が被告人に対して質問したり、処罰意見を述べたり、そもそも無実かもしれない被告人を、憎しみのこもったまなざしで見つめ続ける被害者、遺族を被告人と対峙させることは相当なのでしょうか。
 被害者や遺族の方々は、本当はどこかでほくそ笑んでいるはずの「真犯人」をこそ憎み恨んでいるはずなのですが、しばしば、いつの間にか、現に犯人である可能性があるために起訴された被告人を「真犯人」と錯覚して、目の前の被告人に対して、怒りの感情を抱き、罪を認めず争う姿勢にいらだちを募らせるということが少なくありません。そういう事象は、たまに無罪判決が下されたとき、マスコミが被害者や遺族に対してインタビューするときの被害者、遺族の受け答えで、見られるところです。でも、それはお立場がお立場ですから仕方ないことですし、非難することはできません。
 しかし被告人が自分は無実であると主張している場面で、被告人こそが犯人に間違いないと思いこみがちの被害者、遺族の方が法廷に参加して、被告人に対して、直接、質問できる機会が与えられたとしたら、当然、被告人の無罪の主張には聞く耳を持たないという態度で接することになるはずです。被害者が被告人に対して強く迫れば迫るほど、被告人も、言われるがままに黙っているわけにも行かないので、被害者の質問に対して反発して切れてしまうこともあるかもしれません。ますます被害者は被告人に対する怒りを募らせるでしょう。それでもプロの裁判官なら冷静に真相は見極めてもらえるかもしれません。でも間もなく裁判員制度が導入されるところ、裁判員はどうなのか、申し訳ありませんが、はなはだ心もとありません。 

  そこで、被告人が有罪、無罪を争っているような事件の場合には、被害者、遺族自身が法廷に参加して、直接、被告人に対して質問したり、求刑意見を述べたりするのではなく、それはやっぱりあくまでも法律の専門家に委ねるべきだと思うのです。
 つまり、被害者、遺族が刑事裁判に参加することを保証するのは画期的な改正ですし、被害者、遺族にとって当たり前の権利がようやく実現することと評価できると思います。しかし実際に刑事裁判に参加するためには、争点が情状だけであるという場面と、むしろその前提となる事実関係が争われている場合とを冷静に区別できる能力が必要です。もし目の前の被告人が真犯人でないというならば、怒りや憎しみの感情の向ける矛先を被告人から外すことができる能力が必要です。
 しかし被害者や遺族自身にそれを期待するのは難しいのではないでしょうか。ここは法律家である弁護士の出番となります。
 そうなると「検察官が弁護士に変わるだけではやっぱり意味がない。自分たちの肉声を被告人にぶつけたいのだ」という反発も聞こえてきそうです。しかし検察官は被害者、遺族が信用して事件の担当者になって頂いたわけではありません。もともと信頼関係があるわけではないのです。それに対して弁護士がその役割を担うときは、被害者、遺族の方々が自ら信頼おける弁護士を選んで選任するわけです。充分に被害者の方々の気持ちをくんで、被告人に対して気持ちを代弁していくことができると思います。 

  以上のとおりで、もし被害者、遺族が刑事裁判に参加を申し出る場合には、それは必ず代理人として弁護士を立てなければならないという条件を付するべきだと考える次第です。