私が離婚の案件に携わることが多いことは前にもご紹介したところですが、今もその傾向は全く変わりません。
その中で、最近、もっとも解決が困難になった問題が、今回取り上げる「面会交流権」の問題です。
面会交流権というと難しく聞こえますが、ごく簡単なことで、結婚したものの相手とはうまくいかず別れることになったとしても、子供が自分の子供であって、自分にとって大切な愛情を注ぐ対象であることに変わりはないのだから、離婚するなど離ればなれとなって生活することになった後であっても、子供とは引き続き親として接する機会が確保されるというものです。夫婦は離婚して別れることがあっても、親子の縁が切れるわけではありませんから当たり前と言えば当たり前の話です。しかし、まだ小学生低学年程度以下の子供であると、結局は、子供を手元で現に監護養育している側の親(監護親)が離婚した相手と顔を会わせたくないために、いきおい子供も、離れて暮らす他方の親(非監護親)と顔を会わせる機会が持てなくなってしまいがちなので問題になるわけです。子供が思春期をまもなく迎えようとする年齢に達しているならばともかく、まだ幼い子供が自分自身で離れて暮らす親(非監護親)と連絡を取り合うということはまずないからです。
しかし、まだ小さな子供がいるご夫婦が離婚問題を抱えるときは常に面会交流権の問題が出てくるのかというと必ずしもそうではありません。何の問題もなく、子供と親との面会などの連絡が確保できているというなら当然ですが、全く子供と親との交流が途絶えてしまっている状況にあっても、特段、問題にならないこともあります。面会交流をどうするかということが一応、課題にはなったとしても、離婚を巡る他の問題が解決すると、そのままうやむやのまま立ち消えになってしまうこともあるのです。
ところが以前に比べて、20年前位から、面会交流を巡る対立は熾烈となり、他の問題があってもうやむやに終わることがなく、解決が困難なまま紛争が長期間に及ぶ場合も増えてきているような気がします。離婚が成立した後も数年にわたり紛争が継続し続けることも少なくありません。
そこでまず、その背景について私が考えていることについて触れてみたいと思います。
一つには、非監護親にとって、養育費を確実に支払いをしなければならないことになったということがあるのではないでしょうか。養育費は一度でも支払いを怠れば、将来分についても差し押さえを受けることもありうると覚悟しなければならない制度になりました。しかも養育費については、いわゆる算定表に基づき機械的に決められることが一般化したため、算定表による算定が一般化する以前に比べて高額化しております。
そのため、養育費を支払わなければならないなら、当然、子供と会える機会を与えてくれないと納得できないという思いが強くなっているのでしょう。
もう一つ、晩婚化、少子化の影響もあることは間違いありません。非監護親は、一度離婚するとなると、再婚してもさらに子供に恵まれることは期待できないと考えるのでしょう。新しい家庭ができて、また子供に恵まれるということであれば、どうしても前の子供に対する愛情は薄れてしまいがちです。それが人情です。しかし、さらに子供に恵まれることがないとすれば、せっかくの子供とのつながりを断ち切ることなく大切にしようと思うようになります。
また他方で、監護親側でも、ドメスティック・バイオレンス(DV)を受けていた場合の被害者としての権利があるはずであるとの意識が強まってきたという事情も大きいと思います。DVは、遙か昔から存在したはずですが、長らく、夫婦なら多少のことは当たり前、いちいち問題にしていても仕方がないという扱いでした。それが平成13年に「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」が制定され、今では配偶者からの暴力に悩む人で、この法律を知らない人はほとんどいないようなところにまでこの法律は浸透して参りました。そしてこの法律に基づく保護命令においては、一定の場合に、子供たちへの配偶者の接近をも禁止する命令を求めることができることとなっています。つまり配偶者からの暴力に悩んでいた人は、常に子供たちを相手に会わせなければならないとは限らない、子供たちを会わせることがむしろ子供たちにとっても不幸になる場合があるのだと考える際の有力な後ろ盾を得たことになったのです。
かくして、非監護親は、子供との面会交流を強く求め、他方、監護親は、それに強く抵抗するという対立構造が生じやすくなったのです。
ところで子供との面会交流が問題になるときは、家庭裁判所に家事調停を申し立てることになり、さらに、調停で解決できないときには、しかるべき審判が下されることになります。
家庭裁判所が審判を下す際には、「子供の福祉」という視点を金科玉条にして処理します。子供の健全な成長のためには、母性も父性も共に必要であり、面会交流を適切に行わないとそのバランスが損なわれてしまいます。そのようなことがあってはならないという観点で処理します。そして夫婦間の対立している懸案は、あくまでも離婚訴訟の場で解決するべきであって、親子の問題である面会交流の場に持ち込むべきではないとして処理されるのが通例です。ということは、もちろん面会交流を行わない方が子供の福祉に合致するというケースもあるにはあるとはいいつつも、実際には、原則として面会交流の機会は与えるべきであるという方向で判断がされることになります。
しかし私は、今日、そのようなきれい事だけでは解決しない場合が増えてきたということを家庭裁判所には理解していただきたいと思っています。
すなわち非監護親の側が監護親に対して暴力をふるったり、暴言をたびたび述べていたりしたというような事情があった場合には、その幼児体験を経ることで、子供の非監護親に対する嫌悪感、恐怖心が定着してしまっていることもあるのです。そういうこともあり、直接、子供に向けられたものではなくても、子供の面前で夫婦間のDVが行われていることも、子供に対する虐待であると位置づけられるようになっています。だとすれば、むしろ面会交流をすることが子供の福祉に反するという考え方は十分、成り立つはずなのです。
そのような場合でも、裁判所が、やはり非監護親と子供との面会交流の機会を保障する必要があると考えるのであれば、非監護親に対して、暴力、暴言に対する真摯な反省を促し、監護親に向けての謝罪をさせ、併せて、今後、子供と面接交渉する過程で、子供たちには決して嫌な思いはさせないと確約させるようにするべきです。その上で、子供に対する非監護親に対する嫌悪感や恐怖心を払拭できるような心のケアが必要不可欠になります。それをしないままに、監護親に対して「ご夫婦の問題と親子の問題とは別ですから、切り離して考えて下さい。」というだけでは、肝心の子供は置き去りとされ、監護親においても、裁判所は「暴力や暴言があったということを信じてくれない」と不信感を抱かせ、円満な面会交流が実施されることはおよそ期待できないこととなります。
そして仮に非監護親が、配偶者への暴力、暴言に対し、反省をしない、監護親に対して謝罪をしないというような場合には、家庭裁判所は、むしろ子供との面会交流ができる環境にないとして申し立てを却下する勇気を持つべきだと考えています。
以上をご覧頂ければ、私が離婚に関連して面会交流についての相談を受けた場合の私のスタンスはご理解いただけるでしょう。
原則として、私も面会交流は認める方向で対応します。仮に監護親から相談を受けて「面会交流には応じたくないのです」といわれても、そのご希望に特段の具体的な理由がないならば、その要望に応えることができません。
しかしもし、相手が暴力、暴言をふるっていた事実があるのに、それを頑として認めようとしない、謝罪はもちろんしないというようなときであれば、子供との面会交流を認めるべきでないと裁判所に理解してらえるよう努力いたします。
逆に非監護親から「面会交流を実現させてほしい」と相談を受けた場合、原則としてそのために尽力いたします。しかしながら監護親から暴力をふるわれたなどと非難されている場合には、まずその誤解を解くことが先決であり、誤解されたままでは面会交流の話し合いに進んでも意味がないと助言することとしています。そして実は相手の非難が本当なのであれば、素直に認めて謝罪するようにと説得することでしょう。面会交流の話し合いはその後の懸案となるわけです。
以上、離婚に伴う子供と親との面接交渉をめぐる問題について取り上げました。
しかしながら、離れて暮らす子供と親との面会などの交流の問題は、離婚に際しての未成年の子供の問題だけではありません。子供が成人に達した後であっても問題は起こります。近年、長寿を保たれる方が多くなってきています。その代わり、残念ながら認知症が進むなどして、自分の意思では自由に行動できない高齢者も増えております。そういう高齢者となった親と、子供との自由な交流についても考えなければならない問題があるのです。
次回は、そちらにスポットを当てて考えてみたいと思います。