平成21年5月12日から、裁判員制度が施行され、一定の刑事裁判については裁判を裁判官任せにするだけではなく、法律の専門家ではない一般市民も裁判官と協力して裁判に加わることとなり、既に8年が経過しました。
ところで、そもそもなぜ法律の専門家ではない市民が裁判に加わる裁判員制度が導入されたかというと、法律はもともと、社会常識を体系化したという一面もあるわけで、原点の社会常識からかけ離れて、法理論に走ってしまい常識では理解しがたい裁判になってはいけないはずなのです。それをまず阻止しようということなのです。そしてまた、本来、裁判所は日常生活で起こる紛争を解決する場であるはずなのに、日本の場合、とかく裁判というのは自分とは縁のない世界、他人事と思われているところがあり、裁判に参加する機会を設けることによって、市民にとっても裁判所を身近に感じてもらうようにしようということも考えられているのです。
とするならば、本来、裁判員制度が必要なのは、刑事裁判ではなく、民事裁判の場面なのではないでしょうか。
そもそも、日本における刑事事件の実情は、検察庁が裁判所に起訴する事件はほとんど被告人が最初から罪を認めており、あとは量刑の問題という事件です。実は、この場面では一般人の感覚を取り入れることが期待されているわけではありません。実際、裁判員の評議に際しては、過去の量刑基準をまとめたデータベースが裁判員に対して示されて、それに準拠するような方向で評議が進められているそうです。過去の量刑基準に準拠するなら何も裁判員の意見を取り入れる必要はありません。
もちろんごく一部に被告人が無罪を主張するなどして、判断の微妙な事件があるのも事実です。しかしその種の事件の場合、既にマスコミが盛んにニュース報道やワイドショーでいろいろと取り上げたりしているため、果たして本当に一般市民が、先入観抜きに被告人の有罪、無罪の判断をすることができるのか、私は疑問に思っています(だからといって、報道を制限しようとするのも、報道の自由、国民の知る権利の見地から大きな問題があります)。つまり市民の裁判への参加が求められる事件自体が少ない上、参加の意義がある事件については、その中立公平な判断を担保するのが難しいのです。
この点、民事事件は違います。無論、裁判で勝ち目があるかどうか、相談を受けた弁護士は検討してはいますが、その立場上、相談者の主張を信頼して判断しております。また弁護士の個人的価値判断に基づいて訴訟提起の是非を判断しております。したがって結論がどうなるかは裁判をしてみないと判らないという微妙な事件が少なくないのです。
そして市民感覚、社会常識に基づく判断がより必要とされるのは、犯罪の処罰を目的とする刑事訴訟よりも日常紛争の解決を図る民事訴訟でこそ重要です。私もこの事件が陪審制のもとで行われていたならば勝てたであろう、もっとよい結果が得られたであろうというケースを何度も経験しております。誰が見ても依頼者の不利益が回復されてしかるべきなのに、相手方が勝ってしまということも少なくないのです。裁判所はその役割上、法体系の整合性を保つことを重視せざるをえませんから、そのようなこともしばしば起こるのです。ニュースで話題になった事件でも、「えっ」と思うような判決がたまに出ていますよね。そのほとんどが民事事件です。それはそれで裁判所が法に則って事件を解決するという役割を果たしている結果ですから、裁判所が悪いわけではありません。しかし市民の理解が得られない判断であっては何にもなりません。それをカバーするのが裁判に市民が参加するという意味なのです。
また民事訴訟がニュースなどで取り上げられるときは、判決が出て始めて取り上げられたり、最初からどちらの主張がとおるだろうかという冷静な報道がされていることがほとんどで、刑事訴訟の場合の犯罪事件報道と比べて先入観を抱かせられることも少ないと思います
それに裁判所を身近に感じてもらうようにしようという意味でも、民事訴訟でこそ当てはまることだと思います。刑事訴訟が身近になったら却って困ってしまいます。それは治安の悪い社会で身近に犯罪者や犯罪被害者がいるということにほかならないからです。
私はむしろ刑事事件では専門の裁判官を信頼して任せてもよく、民事事件にこそ市民が何らかの形で裁判に加わるべきだと考えています。刑事事件の裁判員制度が導入されて8年も経過したのに、民事事件での市民参加については、未だに具体的な議論さえ始まらないのは残念でなりません。